「毎日が骨折のような痛み」レディー・ガガらも公表する“線維筋痛症”の美魔女、ヘルプマークの普及と理解を求めて
歌手のレディー・ガガやフリーアナの八木亜希子も公表している「線維筋痛症」。中高年の女性に多く、身体に原因不明の痛みが生じる疾患で、いまだ明確な治療法は確立されていない。そんな線維筋痛症を患いながらも『第11回 国民的美魔女コンテスト』(2020年)に出場し、ファイナリストになったのが大谷美子さん。現在41歳で、15歳の息子を育てるシングルマザーだ。現在も痛みと闘いながら、仕事や家事、そしてこの病気への理解を深めるための活動を行っている。そんな大谷さんに、病気との闘い、そして未来への想いを聞いた。
【写真】「まるで陣痛」毎日の痛み乗り越え、コンテストに出場した美魔女の晴れ姿&美ボディ
■常に襲う骨折のような痛み、病名判明までにかかった5年と心無い言葉
――大谷さんが、線維筋痛症を発症された時のことを教えてください。
「今から7年前、突然、上半身に経験したことのない激痛が襲ってきたんです。今も痛くない日は1日もなく、常に骨折のような痛みが続いていて。ひどいときは陣痛を超えるほどの痛みを伴うこともありました。痛みは目に見えるものではないので、周りの人に理解されないのがつらいですね。専門医も非常に少なく、医師だから理解してくださるとも限らないんです」
――病名が判明するまで、かなり時間がかかったそうですね。
「5年かかりました。大学病院を7ヵ所くらい転々として…。最初に内科に行って、神経内科、耳鼻科、脳外科、麻酔科などに行きましたが、診断してくれる医師にはなかなか出会えなくて。『もっと筋トレをしなさい』って言われたり、わかってもらえない悔しさともどかしさで涙が出ました」
――ブログには、「痛みのせいでペンで字が書けない、お箸や包丁も持てない、スマホの入力ができない」とあります。日常生活にもいろいろと支障が出てきますよね。
「はい。朝起きるのにも1~2時間かかるのですが、そうやってどうにか自分をコントロールしようとしても、周りには理解されにくくて。『怠けている』『サボっている』と心無い言葉をかけられたことも、多々あります。発病した当時、私はエステの仕事で独立して1年経った頃だったんです。最初は痛みをかばうように施術していたものの、仕事にも日常生活にも支障をきたし、できないことが増えていく恐怖しかなかったですね」
――その頃はどんなお気持ちでしたか?
「『こんなに痛みを抱えるなら死んだ方がマシ』『この電車に飛び込んだら楽になるかな』と考えてしまうくらい、目の前が真っ暗。頭痛やめまいの症状も出たり、身体の痛みが強くて寝られなかったり…。生きている心地のしない暗黒時代でした」
――病名が判明したのは、どういう経緯で?
「ある時ネットで自分の症状を全部入れて検索したら、線維筋痛症という病名がヒットしたんです。大学病院の先生に話しても認めてもらえなかったから、思いきって専門医のいる個人病院を訪ねて。そうしたら、その日のうちに線維筋痛症だと診断され、安堵で涙が出ました。やっと私の病気をわかってくれる医師が見つかった、と」
――現在は、どのような治療を?
「投薬治療やブロック注射(痛い部位の近くの神経に局所麻酔薬を打つ)です。『美魔女コンテスト』の時もブロック注射と痛み止めの点滴を打ってもらいました。ただ、痛みがゼロになるわけではなく、医師からは『完全に治ることは難しいが、痛みを緩和させて生活の質を向上させる』と言われています」
■難病指定されていない線維筋痛症、「広く知ってもらえたら何かが変わる」
――現在、家事や仕事はどうしていますか?
「痛みが強くて動けない時もあるので、家事はできるときにまとめてやり、仕事の仕方も変わりました。今は施術ではなく教える側になったり、コンサルティングを行っています。私はまだ個人事業主なので多少は自由がききますが、会社員の方だったらもっと大変だと思います。毎日同じ時間に電車に乗って、業務を行う…それはこの病気の人にはすごく難しいことなんです。仕事や生活するのも大変だし、高額な医療費もかかる。でも、線維筋痛症は難病指定されていないんですよね」
――それは意外でした。難病に指定されていれば、医療助成が出たり、理解も得やすいですよね。。
「はい。なので私は、同じ病気の方のためにも、コンテストに出て発信して、少しでも知っていただきたいと思いました。1人だけの活動では限度があるけれど、広く知ってもらえたら何かが変わる。誰かが声を上げ、動かないと何も変わらない。私は下半身はまだ動けるので、動けるうちは活動していかないと後悔すると思って」
――『美魔女コンテスト』に出場されたのも、そういった思いから?
「そうですね。健康ではない自分が出てもいいのか? という迷いもありましたが、病気だからと言って美を諦めることは違う、病人だって綺麗でいることを諦める必要はないと思い、エントリーしました。それまで家族や親しい友人にしか病気を明かしてなかったのですが、ここで初めて病気を公表したんです。出場には不安もありましたが、ファイナリストの皆さんが励ましてくれたり、登壇したステージでも助けてくださいました」
――出場して、どんな反響がありましたか?
「2次審査、3次審査のSHOWROOMや『美STオンライン』のブログでも発信したので、病気についてたくさんの方に知っていただける機会になったと思います。またコンテストを取り上げたテレビ番組では、病気のことを伝えた私のスピーチが20秒ほど流れたんです。そうしたら、それを観てくれた200人以上の方がDMをくださって。『病気の痛みを伝えてくれてありがとう』『希望が持てました』など、励ましの言葉がたくさん…。皆さん、身体が痛い中でメッセージを書いてくださったと思うと、感謝しかないです。少しでも苦しむ方々の希望や力になれたのかなと、それだけでも挑戦して良かったと思いました」
――そんな方々のためにも、今後やっていきたいことは?
「まずは、ヘルプマーク(外見からは病気だとわからない人が、周りに知らせるために付けるピクトグラム)の普及と理解ですね。電車などでは、『席に座りたいだけで付けている』と誤解されることも多く、そのために本当に必要な人が付けられない状況があります。私たちのような病気は外見ではわからないため、伝えられるのはヘルプマークしかありません。SNSなどを使って拡散していますが、少しでも理解してくれる人が増えればと思います」
――ご自身が病気になられたからこそ、そのような使命感を感じられたのでしょうか?
「そうですね。自分が病気になったのも、何か理由があるんだと。大勢の方々に伝えていく使命があったからこそ、今があるのかなと思います。私自身は暗黒時代を抜け出せましたが、今も希望が見えなくて苦しんでいる方はたくさんいます。そうした方々の状況を変えていける活動をやっていきたい。美だけでなく、社会的な取り組みをしていける美魔女になれたら…いや、ならないといけないと思っています」
――息子さんは、ご病気のことをご理解されていますか?
「息子には2年前に病気のことを伝えましたが、よく理解してくれています。私を気遣って、ご飯を炊いたり、買い物をしたり、お風呂を用意したりと、できることをやってくれて(笑)。先日も、電車の中でヘルプマークを付けた方に席を譲ったそうで、そういう行動ができるようになったんだなと喜んでいます」
――今、闘病中の方々に伝えたいことは?
「諦めないで、希望をなくさないでほしいです。私は以前のような死にたい思いはなくなりましたが、それは守るべき子どもがいるからかもしれません。心細い方もいるとと思いますが、そういう方には『1人で抱え込まないで、いつでもDMください』とお返事しています。何でもいいから、自分なりの楽しみや前向きになれるものを見つけてほしい。できなくなったことに執着するより、できることに目を向けることが大事だと思います」
――健康な方に対して、何かメッセージはありますか?
「いま健康な方も、ご自身の身体と向き合って、少しの異変も見逃さないでほしいです。そして、たくさんの方々にヘルプマークを知ってほしい。見て見ぬふりをしないで、必要な時には手を差し伸べていただきたいと思います」